月の指先









桜が散り始めた後、すぐに雨が降り出した。
重い雨粒は小枝を揺らし、残っていた数少ない花を落とす。
地面にはり付けられた薄桃色の欠片。
所々、蝕むように出来た水溜りに幾枚もの花弁が浮かんでは沈む。


お前の居た季節が去っていく。





「たーいちょ・・!」
耳元で響いた声にびくりと冬獅郎は肩を震わせた。
「松本・・・・」
ねめつける様に、頬杖を外して見上げる。
「わー詰まんない反応ですねー」
「てめぇ・・・」
睨み付けても、乱菊は素知らぬふりでもう仕事終わったんで帰っていいですかー? なんて聞いてくる始末。
言われてみて初めて冬獅郎は室内が暗いことに気づいた。
夕日が落ちるのを見ていた記憶があるから、随分と長いことぼんやりしていたらしい。
いつもは微かに聞こえてくる他の者たちの物音すらせず、しんと静まり返っている。
一つだけ卓上近くに灯された蝋燭が宵闇の執務室を淡く照らしていた。
「あーもー!」
乱菊は両手を腰に当て、机の書類を見てから天井を仰いでいる。
「なんだ?」
本当にいちいち動作の大きいやつだなと冬獅郎は毎度のことながら思う。
「なんだじゃないですよ、これ!
仕事終わってるんなら、とっとと帰って休んでくださいよ。明日もあるんですから」
ばしばしと持ち上げた数枚の書類を叩く。
もちろんそれにも、きちんと冬獅郎の字で決済済みの文が書かれていた。
中々、処理済の書類を持ってこない冬獅郎をいぶかしんで執務室を覗けば、
ぼんやりと机の後ろにある、大きな窓の傍にその姿はあった。
いつもは入ってくる乱菊に気づく彼も、今日は黙ってその侵入を許した。
机に向かっていない隊長なんて珍しいと近寄ってみれば、少しだけ開け放した窓、
その枠に頬杖を付いて外を眺めている様子。
ぼんやりというより、気の抜けたような目で外を、多分、雨に散る桜を見ているのだろう。
戻ってきて欲しくて、わざと大きな声で驚かす真似事をした。
怒ってくれればいい、なにやってんだって、。
また変なことしてんじゃねぇって呆れて下さいよ。
調子狂うじゃないですか、隊長。
だから、さっき、にらみ付けられて乱菊は正直ほっとしていたのだ。


一護が、現世に戻って数週間。
あの時、満開に近づいていた桜が風に散る中、少年は去っていった。
何度も振り返る姿が誰を見ているかなんて、気づいているはずなのに、
近寄りもしない冬獅郎に乱菊は苛立つ気持ちを抱いていた。
声を掛けようと冬獅郎に近寄って、しかしあと数歩のところで乱菊は声を掛けるのを
止めた。
握り締めたその小さな両手が、微かに震えていた。
それは本当に些細な揺れだったけれど、見てしまった乱菊は出掛かっていた言葉を飲み込んだ。
どんな困難にも耐える精神はまだ幼い隊長ながらも見上げたものだと賞賛されているが、
誰にだって限界というものがある。
こうしなければ、この人は、目の前の少年を、去り行く子供を、見送れないと気づいていたのだ。
もう、逃れられぬ運命ならば、どうか、この人間が一番に傷つかぬために。
自分が泣かぬこと、弱音を吐かぬことだと戒めていたのだ。
「隊長・・・・・・」
昨日、仕事が終わる頃合を見計らって一護が十番隊にやってきたのを乱菊は思い出す。
最後の挨拶に来たんだなと分ったが、乱菊は湿っぽいことは嫌いだったからいつものように
お茶とお菓子を用意して出迎えた。
隣同士に座る冬獅郎と一護、その向かい側、出口に近いほうに乱菊は座った。
訪ねた一護もそんな乱菊の応対が嬉しかったのかいつも通り、丁寧にいただきますと言って、
お菓子に手を伸ばす。
乱菊と一護が会話するのを冬獅郎はただ黙って聞くだけだった。
「なんか喋ってくださいよ、隊長ー。お腹でも痛いんですか?」
「そんなんじゃねぇ」
睨み付けてくる様子はいつも通りで、まだ落ち込んでないと思った乱菊は、
それじゃ、あたし仕事に戻りますねーと席を立った。
残り少ない、短い時間だ。
二人きりにしてやらねば言えぬ事もあるだろう。
扉を閉める数センチの最後に、一護の頭に手を伸ばした冬獅郎の腕が見えた。

乱菊の話し声がなくなると途端に部屋の中は静かになった。
「もう会えないな」
ポツリと呟いた声は小さくても思いのほか響いて、冬獅郎の耳に届いた。
「・・・ああ」
寂しげに笑う一護の髪を無言で梳く。
一護は目を閉じて冬獅郎の小さな肩に凭れた。
「冬獅郎・・・」
「なんだ」
「ん・・・なんでもねぇ」
「そうか・・・」
何度も自分の髪をやさしく梳いてくれる指先、頭皮に触れる爪先が、
一護はくすぐったくて、愛しくて、悲しかった。
凭れかかる肩の重みが、体温、それが明日にはこの手を離れていく。
放すものかと、信じろといった己の言葉が守れない約束の残骸となって、
冬獅郎の胸の重石となる。
待っているとは言えなかった。
期待も希望も安易にもてる状況ではないことを誰よりも知っているのは、 この目の前の人間だった。
そして、その意思を打ち破れるだけの言葉を冬獅郎は持っていない。
「ありがと・・・俺もう行くよ」
離れる温もり。
立ち上がった一護は、最後まで笑っていた。
その笑みを、無理して作ったものだとしても別れをそれで望むのなら冬獅郎は
それを受け止めるしかないと思った。
いつか、彼の魂が体を離れ、この世界にやってくる時がくるだろう。
けれど、その時、彼の心は残してきた誰かを想っていないと言えるだろうか。
この世界と現世の繋がりは総隊長の命で絶たれた。
その後のことは互いに干渉できるものではない。
個人の感情だけで世界を揺るがすことを良しとしないのは自分も彼も同じだ。
俺以外を見るなといえるものか。
俺以外を想うなといえるものか。
それは何よりも愛しく思う彼の未来を摘み取ることにはかならないのだから。
けれど、言いたくて仕方なかった。




相変わらずしとしとと振り続ける雨は桜の姿をけぶらせていた。
屋根から落ちる雨粒が規則的な音を立てている。
静かだった。
乱菊が口を開かなければ、ずっと冬獅郎は黙ったままここで桜を見続けているのだろう。
霞がかった光景はぼんやりと薄く世界の姿を騙しているようだ。
乱菊は外を見続ける冬獅郎の傍を離れなかった。
冬獅郎も乱菊がしたいようにさせているというよりは、それよりも他に意識を取られている といった方が正しかった。
「黒埼がくるのなんてあっという間ですよ。仕事やってるうちに、あれ?
もうそんな時だっけー?て言っちゃうくらいですから」
わざと台詞のところだけ冬獅郎の声音を真似てみせる。
普段ならば、似てねぇからやめろと寄越される制止の声は返ってこない。
「まぁな、何十年後にあいつはくるだろうな・・・でも」
俺を選ぶだろうか。
降り積もってできた最後の不安を口には出さなかったが、乱菊には分かった。
自分の上司が悩みそうなことなどお見通しだ。
「隊長・・・・あほですか。
そういう時はですね。今度こそ、手掴んで放さなきゃいいんですよ・・!」
腰に手を当て、ぐっと冬獅郎に顔を寄せた。
「・・・・・・・」
頬杖を付いていて手から顔を離すと乱菊の方を向き、一、二度瞬きをした。
きっと今気づいたのだろう。
「うだうだ悩んでると黒崎が来たときに振られちゃいますよ」
「・・・・バーカ。それなら、もう一度惚れさせるだけだ」
ニヤリと笑った口端。
それは眉を常にある顰め面ではなく、無理のない笑みだった。
乱菊が見たかった不敵で己の力を信じている男の顔だった。
「分ってるんならもう帰っていいですかー。夜更かしは美容の大敵なんですよ」
「ああ、ご苦労だったな」
「はーい」
明日の早朝に提出しなければならない数枚の書類を手に乱菊は執務室を出ようと 扉に手を掛けた。
「松本」
半分身をこちらに振り返る。
「はい?」
「ありがとう・・・・」
月光を受ける冬獅郎の頬に薄い笑みが上っていた。
「・・・いいえ、おやすみなさい」
「おやすみ」

そっと閉じた扉の向こう。
冬獅郎はまだ散った桜木を見ているのだろう。
その影に想い人の面影を重ねて。

けれどそれは二度と会えぬと嘆いた日々の終わり、
いつか訪れるその時まで、焦がれ待つ日々の始まりなのだ。






06.8.1 「月の指先」




当サイトの乱菊さんはヒツイチを応援しつつも、
一護と冬獅郎だったら、冬獅郎に重きを取る方です。
恋愛というより尊敬の感情。