夜が明ける
目を開けるとそこは見慣れた自分の病室の天井だった。
ひそりと忍び込んでくる薄色のカーテン越しの光は、
ぼんやりとした月影を床に落としていた。
満月に近いのか、その光は夜の濃い色を弱めているようだ。
おかしいなと最初に感じだ。次に、ではどこがおかしいのかと頭で問う。
そして至る。
自分が思っている時間と合わない。
記憶を辿れば一番新しいものは夕暮れの街並みだ。カーテンは開いていて、
その奥の窓からはすこしだけ近づいた夏を感じさせる風が吹き込んでいた。
思い出していくほど、一護の頭は冴えてきた。
それは彼を取り巻く夜独特の空気に似ていた。
時間が合わないのはきっと、自分の片手で数えられだけの原因しかない。
その中のもっとも確立の高い理由のひとつ、その証拠を確かめるように、
そっと襟元を広げて覗いてみれば薄く赤い線が胸に残っていた。
赤い爪跡は痛みを抑えるためにする自分の癖の証だった。服越しにさえ、少し伸びた爪先は
小さな凶器となって皮膚を傷つけるのだ。
ここ最近、発作は起きていなかったから、ここまで目立つものはないはずだ。
やはり、発作を起こして気を失っていたようだ。
以前のものは本当に、微かな痕だけを残して胸のあちこちに留まっているだけである。
漸く至った結論に納得すると共に、ふと、太腿の辺りに重みを感じ、一護はそっと上半身を起こした。
途中、引っ掛かりを右手に感じたのを視線で追うと、握られた手があった。
その手の先を辿ると-----
「・・・冬獅郎」
そこには備え付けのパイプ椅子に腰掛けたまま、ベットに頭を預けて眠る男の姿があった。
まだ気持ちを通わす前は、意識を失う寸前まで繋いでくれたことはあっても、起きた時に
彼の姿があったことはなかった。
それがいつの間にか、一護が起きるまで傍についていてくれるようになった。
けれど、そのどんな時も、目覚める自分を待っていてくれたから、こうして寝ている冬獅郎を
見るのは初めてかもしれない。
ゆるく握られた指先をそっと剥がすと、眠っている彼が身じろいだ。
起こしたかと慌てたが、しかし、すぐにその動きは収まり、起きる気配はない。
さらりと頬に流れ落ちた銀色の髪が、光に透けてきらきらと輝いている。
きれいだ・・と声にならない息で呟いて、右手で触ってみる。
冷たいかと思われたそれは、想像していたほど冷たくもなく、そして、
体温を感じさせるほど暖かくもなかった。
そう、まるで月の光のようだ。確かに目で感じることは出来るのに、その温度は
人の肌では測れない。
何度か撫でるように梳いてそっと手を離した。
ここまで、近くで触れていて彼が目覚めぬ例など一度もなかったから、まさか振りでも
しているのだろうかと思ったが、そんな芸当を出来るほど器用な人間ではないなと思い直す。
掻き上げた際に見えた冬獅郎の横顔に、一護は目を細めた。
「・・・・・・・」
彼は、少しやつれた。一番最初に会ったあの時に比べるとその差は徐々にではあったが
目に見えて分かるようになった。
24時間ではないにしろ彼の一日の大半は自分の治療の方法を模索するために割かれている。
そして、その結果が思わしくないことも、気づいていた。
数ヶ月も経った今では調べ尽くせるだけの検査も終わり、その一つ一つの結果に彼は
絶望の淵を見ているのだ。
いくら名を馳せる冬獅郎の腕を以ってしても、この世界にはまだこの病の治療法を
見つけるだけの技術と時間が足りない。
何年か先か、何十年か先に見つかるかもしれない。でもそれはけして、自分が生きる
今ではないのだと、一護は思うのだ。
目を落とすと陶磁のように透き通った彼の顔が映る。
元々色素の薄い彼であったが、夜の中ではいっそう儚く見える色だ。
小さく呼吸に合わせて上下する肩は傍で見ると思ったより、細く小さかった。
抱きしめられた時にはあんなにも大きくて暖かく感じていた腕や肩は、
こんなにも疲れ果てていたのだ。
「馬鹿だなぁ・・・、俺が治る前にお前が倒れでもしたら意味ないじゃねぇかよ・・・・」
頬を手の甲でそっと撫でる。ほんのりと暖かい肌に知らず、一護の口端に
笑みがのぼった。
けれど、その表情は眉が顰められ、笑っているはずなのにどこか嬉しそうで
悲しそうだった。
「なぁ、お前はもっと生きて、もっとたくさんの人を救える・・・。
色んなとこ行って、言葉も通じない国に行っても、誰かをきっと救える
医者なんだぜ」
どこから情報を仕入れてくるのか知らないけれど、彼の元へと舞い込む
郵便の数は途絶えることを知らない。
そのどれもが病や怪我への救いを綴ったものであることは知れていた。
出会って間もない頃だった。
それらを読んでいる彼の背中を病室を抜け出した時に見たことがあった。
誰もいない夜中、屋上手前の廊下のベンチで、背を丸めた彼の両手に広げられていた 白い手紙。
横には既に封の空けられた封筒が小さな束となって山を作っていた。
彼の姿を偶然見つけた一護は、子供のように驚かせてやろうと擡げていた悪戯心を
鋭い鎌で刈り取られた気がした。
彼には助けられる命が、あるのだ。
自分だけはない。この世界に生きる、かろうじて生きてる誰かを。
その時発作のせいではない痛みを抑えるように、一護は冬獅郎に気づかれる前にその場を
後にしたのだった。
「ほんと馬鹿だなぁ・・・」
頬撫でる手は止めず、零れる息のような声。
それは赤子を宥め、あやすように優しい手付きと声音のようだった。
一度だけ、一護の頬を伝った滴は、ぽたりとシーツの波に落ちた。
馬鹿なのは、こんな自分を諦めずここに留まり続ける彼のことか、
それとも、医師に対して以上の感情で引き留めたいと願う自分のことか、
いや、そのどちらでもあるのだろうか。
なぁ、さよならと言えば、少しはお前の心を軽くしてやれるだろうか。
もし・・・、もしも、この命が消える前にお前に笑ってそう言えたなら、
遠い異国の空の下で、俺の笑った顔だけを思い出してくれるだろうか。
もし、そうだと頷いてくれるのなら、俺は、その言葉を口にしよう。
この日まで支え続けてくれたことを、感謝しよう。
隣にいてくれたことを忘れずに覚えていよう。
抱きしめてくれたその腕も背中で感じたあの鼓動も、
この唇で確かめた温度も、なにひとつ
溢すことなく胸の奥に仕舞って。
そして---------------、
そして、お前のいない空白を持ったまま、生きて、逝こう。
「だから、いつかその時がきたら頷いてくれよ・・・・」
鳥の鳴き声がしはじめた。
その声に目を窓へと向ける。
夜が明るかったのは、月明かりが強かったせいではない。
もうすぐ太陽が昇ることが近いことを知らせていたのだった。
次第に明るんでくる部屋のなかで、一護は眩しいその光に目を細めていた。
いつだってこの世界は人の溢れる感情も地上でのどんな出来事も関係なく、
夜がきて、そして朝がくるのだ。
そう、それはまるで、人が生まれ、死んでいくように。
fin
「夜が明ける」
06.7.16
忘れた頃のBJ旦