白き心を持つ君は強い
されど、世界に優しさばかりだけがあろうはずもなく、嵐のような理不尽さと矛盾が
君を翻弄し飲み込もうとする

血を流し倒れ、それでも立ち上がる君は強い
されど、世界に悲しみの終わりなどなく、いつでも君が護ろうとする者を攫い、
無力さを突きつけ、立ち上がる体を踏みつけるようと狙っている

君は強い 
されど、君は脆い
そして、世界はそれを知る



今日も世界は君に牙をむく



ころさないで、と少女は泣いた。

大きな眼からは涙が溢れ、頬を幾筋にもなって流れる。
その小さな背に立つものは、胸に黒い穴の開いた少女の何十倍の大きさもある化け物。
狼のように四つん這いに身を屈め、唸り声を上げている。
白い仮面をつけた顔は、一護の頭上に浮かぶ細い三日月のように歪み尖っていた。
外灯が遠くにあるだけの空き地は暗く、顔だけが黒い壁に掛けられた面のように、 やけに白く宙に浮かび上がっている。
アケビが弾けたように大きく裂けた口の隙間からは鋭い二本の犬歯が覗き、地面と唇の間を 唾液が繋いでいる。
死神代行の任を正式に尸魂界から受け、ただの高校生だった一護が今こうして剣を持ち、
昼夜問わず戦うのは虚と戦う為だ。 目の前にいる、この化け物。心を亡くした人間を斬るためだ。
荒い息を吐く虚は、今にも鋭い牙と長い爪で少女の体を引き裂くのではないかという緊張に 一護は唾と息をを飲み込んだ。
両手で抱えられるだけ以上の人を守りたいと以前言った言葉は誓いとなって、一護の 手に力を込めさせる。

ころさないでと少女は繰り返す。

「待ってろ、今、そっちにいくからな!」
斬魄刀を握り、死神化している一護を見えるほどの高い霊能力を少女は持っている。
一番に虚に狙われる危険があるのは明白だった。
一護が来るまでに何度か襲われそうになったのか、半そでから見える腕とスカートから伸びる
足に無数の擦り傷が出来ていた。
子供の体力はそうそう持つものでもない。せめて、安全な場所まで離してやらなければ。
間合いを取っていた一護は片手に斬月を握り、少女に向かって走り出す。
近づく一護に少女は小さな両手を延ばした。
「こっちにこないで・・!」
「!?」
一瞬言われた言葉を理解できず、一護の足は戸惑った。
自分の姿が見えているはずなら、後ろにいる虚だって見えているはずだ。
それでも少女の顔に怯えは無く、一護に対してだけ来るなと眼を向ける。
一護が一歩踏み出す素振りを見せると、少女は左右に首を振って近寄くのを拒絶した。
ただ、ころさないでとその桜色の口は壊れた人形のように繰り返す。
広げた小さな両手は背後の鬼を守る。
虚は頭を唸り声を上げながら左右に振り、長い爪をかき鳴らす。その凶器の爪を 丸みの残る手が撫でる。
「だいじょうぶ、わたしがいるよ。おかあさん・・・・・」
その小さな呟きを耳に拾った一護は眼を見開いた。
空で遠雷が鳴る。重い雲から落ち始めた雨が、地面を濡らしていく。





オオオォンンと遠くに響く虚の声と霊圧に冬獅郎はその方角へ視線を向け、探るように瞼を
閉じるとしばらくして舌打ちをする。
「あの馬鹿」
久々に隊長としての現世での難なく虚退治を済ませ、尸魂界へ帰るところに聞こえた不穏の音。
そして、捉え間違えることの無いのは今だコントロールできていない霊力の持ち主・黒崎一護 の霊圧だ。
対する虚は、中の下というところで手こずるのも眉を顰める程度だ。
霊力も体術も技術はそれなりにあるくせに、一護が今だ怪我の耐えないのは冬獅郎は呆れ、 心配でならない。
たとえ、何度言っても「あーしたほうが戦いやすかったから」と毎回笑って、冬獅郎の忠告など無視 しているに近い。
そんな彼を思い出したら気になったら仕方なくなり冬獅郎は開錠する手を止め、身を翻した。
「つまんねぇ怪我してんじゃねぇぞ・・・!」
置き去りにされた地獄蝶が夜の空をひらひらと舞う。


少女を虚から引き離そうとすれば、少女が虚の方へ逃げ、虚に剣を向けようとすれば少女が その体を張って守ろうとする。一護の体力もさっきからその繰り返しで、雨に打たれた所為もあり 消耗されていくばかりだ。
避けきれずに爪で裂かれた肌からはあちこち血が流れる。
少女が傍にいれば自分に手を出せないと気付いた虚は、一護の攻撃の隙を突いて、2メートルは あろう4本の爪と腕の中に少女を閉じ込め、抱えた。
「おかあさんっ」
少女は嬉しそうに虚の仮面を腕の中から見上げた。
「おかあさんを、ころさないで!」
いつまでもそばにいると思っていた温もりを手放せるなんて幼子にはできない。
分かっていても、少女を黙って虚の手に渡すわけにはいかない。それはつまり、 この子を殺すことと同じだ。
「それはもうお前のお母さんじゃないんだ・・!」
いいながらも一護は自分の言葉が跳ね返ってくるように感じていた。
「違うもん、おかあさんだもん! あたしのおかあさんだもん!」
少女は大声で泣き出した。
傘もない少女と一護は雨に濡れ、髪も体も滴を垂らす。
「あたしがおかあさんをまもってあげるんだもん!」
「・・・っ!」
雨音が煩い。ザァザァと耳を支配する音は一護の過去の光景を呼び起こす。


おかあさん。 おかあさん。

つめたいからだ
どうして、さっきまでつないでいたあたたかいては、こんなにもつめたいんだろう
あかいかわがながれてる
あめといっしょにながれてしまったあかが、おかあさんをさむくさせているんだ

なんどもさがしたかわらは、いしころばっかりだよ

どこにいるの? どこにいったの? 
あのあめのひ、おかあさんはどこかにさらわれてしまった

おかあさん、おかあさん、ぼくのそばにいてよ
こんどはぼくがぜったいにまもってあげるから

「一護!」
突然頭上から聞こえた声に一護は意識を取り戻した。雨音と混じっても聞き間違えるはずは無い。
「冬獅郎・・!?」
一護の隣に降り立った冬獅郎は数メートル先の虚を睨む。
「あんなの相手になんで怪我してんだ、てめぇは・・・っ」
「女の子がいるんだよっ」
いい訳めいた言い方になったが事実だ。
一護の指差す先には虚の巨体に隠れるように、冬獅朗よりもさらに小さな少女がいた。
「・・・ちっ。厄介だな。俺も手伝う」
一種、人質のような少女がいては、一護一人では不利な形勢だった。
鞘から抜かれた氷輪丸は冷ややかな霊圧を放ち、夜の空気を揺るがす。
忘れたわけではないが改めて、肌に感じる直のその霊圧の高さに圧倒された。
冬獅郎の持つ氷輪丸は氷雪系最強故には天候に影響を与える大技は使えないが、
剣捌きだけでも一護とは段違いだ。一度手合わせをしたときには、ハンデを貰っても勝てなかった。
長い爪に予想以上の苦戦を強いられながらも、何度目かの攻防の末、虚の懐に潜り込むことに成功した。
鋭利な白い左爪を冬獅郎は氷輪丸で食い止める。
「くっ・・・」
だが、ギリギリと軋む音を立て、押し返されていく。
体格差はいかんともしがたい。
「一護、今だ斬れ!」
食い込む長い右爪の隙間を縫って、一護は斬月を振り下ろした。
仮面を割り、腹部分までを斬る。
ギィヤアアアアアと辺りを満たす断末魔。残響は四方に散る。
「っつ!!・・・っ」
暴れる虚の鋭い爪の一本がが一護の体に刺さった。
痛みに緩みそうになる両手の力を顔を顰め、耐える。
まだだ、それでも虚が消えるまで突き刺した斬月の柄を離さない。
渇いた音をたて虚が粉々に砕け、その存在を散らしていくと一護の内にあった爪も消え去った。
「っ!!」
せりあがってくるものが一護の喉を圧迫した。
焼け付くような熱さと息苦しさ。
呼吸をした途端、吐き出され、ボタボタと音を立て血が塊となって地面に落ちた。
口端を伝う鉄味。拭う右手は斬った虚の血ですでに濡れていた。
「一護!」
よろける一護の体を冬獅郎は氷輪丸を片手に持ったまま素早く支えた。
「・・・・・・・と、しろ、あの子は!?」
一護は自分を支える冬獅郎の肩越しに倒れたひとつの体を見る。
うつ伏せの体は、唯一、消え去った虚がいた証である血溜りに倒れていた。
「ぁ・・・っ!」
「よせっ、俺が行く」
今にも駆け出しそうな一護を留め、いったん楽なように座らせて冬獅郎は少女のもとに歩き出した。
膝をついて、虚ろに開かれた眼を冬獅郎はそっと降ろした。
「助けてやれなくて済まなかった・・・・」
祈るように冬獅朗は一度瞼を伏せた。
やがて、体から浮き上がった少女の魂魄の額に、柄を押し当てる。
魂葬の溢れた光りの中に少女は飲まれていった。
最後の光の糸が消え去った後、冬獅郎は地面に向けていた顔を上げ立ち上がる。
ゆっくりと少し離れた先にいる一護に歩み寄る。
一護の顔は雨と血と泥にまみれ、冬獅郎には一晩中戦った後の兵の顔に見えた。
「情けねぇ顔してんじゃねぇ」
「んな顔してねぇ・・・」
ふてくされたような一護の声の裏に、隠そうとする痛みを見つけて冬獅郎は唇を噛んだ。
「今、治してやるから大人しくしてろ」
一護と同じように地面に腰を下ろし、向かい合って座る。
「・・・・・・・・・・・」
腹に当てられた冬獅郎の手から一護の中に暖かさが流れ込んでくる。
痛みを抑えていた一護は、無意識に強張らせていた肩を降ろした。
じわじわと熱さをもった皮膚はゆっくりとだが再生していく。
鬼道の力を持ってすれば、この深い傷も数十分もすれば傷口さえ分からずに消える。
血を流した跡も今頃弱まってきた雨粒に流される。
それでも一護の奥深くに今日の出来事は刻まれるだろう。
それを思って、冬獅郎は俯いたままの一護をちらりと見て、顔を顰めた。
どうにも不器用にしか生きられぬ人間だ。
肌の上の傷を無くしても、ずっとあの少女をこいつは覚えているんだろう。
ああ、その傷を少しでも小さくできたらと胸の内で願う。
虚と対すれば、痛いと泣いた心を捨て去らなければ斬れぬものがある。
情を捨て去らなければ斬れぬものがある。
それは虚でなく、味方であったものが虚になってしまった場合もだ。
もし、己が虚に飲み込まれてしまうようなことがあれば、迷わず斬れと言う。
そして、一護がそうなれば己は過たずに剣を振り下ろすだろう。
まだまだ子供のこの人間には、それが頭で分かっていても過酷な選択になる。
ましてや、清廉な精神をもつ人間だから尚更に。
「一護、聞け」
「・・・なんだよ」
「守るってことは、何かを斬る覚悟を決めることだ。
それが出来ねぇなら、今日みたいなお前なんかすぐに死ぬ」
眉根を寄せ、一護を見る顔は、一人の隊長のそれだった。
普段一緒にいる時は穏やかに話す声も威厳と重さを持つ。
近づき、目線を同じくした二つの翡翠は強く、一護の目を捉える。
「どんな虚だろうが、どんなもんが来ようが、一つ残らず斬れ」
「・・・冬獅郎」
一護が呼ぶと冬獅郎は厳しかったその眼を和らげた。
なんだか、お前の方が怪我なんかしてないのに痛そうだと一護は思った。
冬獅郎はまじまじと自分を見る一護から眼を伏せ、口端だけで笑う。
「お前、今泣きそうな顔してるぜ」
冬獅郎は右手で雨に濡れた頭を掴むと自分の肩口に押し付けた。
頭を抱え込まれた一護の髪は冬獅郎の肩を濡らした。
「なぁ、一護。俺は・・・お前が泣きもせず立とうとしてるのを見るのは辛い」
「誰が泣く、か。・・・・ち、くしょう・・・っ、いてぇんだよ」
嘘だ。心も体も痛い。
本当は痛くて痛くて堪らなかった。でも守ると決めたからには泣き言は吐きたくなかった。
それでも痛くて堪らない。雨のせいと誤魔化そうとした目頭の熱さも、寒さのせいだと 誤魔化そうとした体の震えも、この優しい声が溶かしだしてゆく。
この痛みを分かってくれる、許してくれる。
冬獅郎、お前を見ると俺はもうここでしか泣けないんじゃないかと最近思うんだ。
おかしいな、俺はお前のことも護りたいのに。これじゃあ俺ばっかりが情けなくて悔しい。
「寒ーい、な・・・」
抱きしめた自分より小さな体も、抱きしめられた腕も本当は温かかった。
「ああ」
「いてぇ・・・・・・っ」
傷はすっかり冬獅郎の鬼道のおかげで癒え、本当は痛みすらしなかった。
「ああ」
小さく震えだした肩、押し殺そうとする一護の声に、しがみ付くように己の黒の背に回された
白い指先に、ようやく冬獅郎は一護の髪に顔を埋め、止めていた息を吐き出した。
自分が一護の安らげる場所になれているのだと思うと安堵と愛しさがこみ上げた。
お前が強いことは知っている。どんなに皆を護ろうとしているかも知っている。
けれど、それが時に弱さを生むことをお前はまだ気付いてなかったんだ。
護ることは同時に弱みを持つことだ。
一人で何もかも護ろうとするなよ。俺だってはお前を護りたいんだ。
精一杯の力で大地に立とうとするこの細い体が時々どうしようもなく痛々しい。
だから俺にだけはどんなにみっともなく泣き言を言ってもいい、泣いてもいい。
でも俺はお前の退路を塞ぐ。
憎まれようと逃げ道は作らせない。それがお前の選んだ『守る』という道。
もしお前がもう自分自身すら見失って狂ってしまっても、俺は傍にいる。
己の欲と知っている。それはお前の我侭だと言われれば黙って頷こう。
自分にはこの腕に抱いた橙の命を容易く渡す気なぞ、ないのだ。
だから、その辛さを支えられる力と彼を己から奪おうとする敵を斬る力を両手に持つ決意を。


血を流し、涙を流しても皆を護りたいと叫ぶのなら、
俺はお前を世界の牙から、守ってみせる。



「今日も世界は君に牙をむく」 05.11.26