コール マイ ネイム





 視界に映るのは、沈みかけた落陽の色。
あかいあかい、すべてが瞼の裏に焼きついて消えない。
もう何の色だかも分からない。本当に夕日の色なのかも怪しいものだ。 一瞬の判断はそうだと告げたけれど、よくよく考えてみると渦巻くような疑問の中へと 思考は飲まれた。
 俺は、目を閉じているのだろうか、開いているのだろうか。
 聞く術もなく、また答えてくれる者もいないようだ。
耳鳴りがする。わんわんと反響する音は脳にこびりつく様で眉を顰めた。 億劫な体はどうしたものか。握り締めた刀の感覚も既に放り出して久しい。
聞こえるのは誰の声。それともこれも耳鳴りなのだろうか。
分からない。分からない。
 ただ目が熱くて、己の眦から涙が零れた。
さて、これも現実なのだろうか。
分からない。
答える者は居らず、そしてまた自分のことすらも今は曖昧でしかなかった。












「隊長!・・日番谷隊長!」
 慌しい足音とそれに負けない声に振り返ってみれば、見覚えのある顔が こちらに駆け寄ってくる姿が遠くに見えた。
 立ち止まった冬獅郎に気づいて、駆け寄る速度を速めた相手の姿が どんどん近づいてくる。
「おい、急がなくていい」
 そう声をかけたが待たせるのも申し訳ないと思うのか、彼は足を緩めなかった。
 冬獅郎が見覚えのあったその顔は数ヶ月前、十番隊に入隊したばかりの青年だった。 少々荒っぽいところはあるが、その言動とは裏腹に周りを思いやる心を持っており、 入隊数日目から早くも松本のお気に入りになっている。
 どうやら、一番隊隊長の秘蔵っ子であるらしく、流魂街の出身でもない彼の詳しい出生は 護廷十三隊の隊長にすら明らかにされてはいない。またそれに対して、厳粛な緘口令がしかれ たのか、大っぴらに不満を漏らす隊長もいなかった。
 しかし、その件の人物がまさか自分の隊に配属されることになるとは、山本に呼び出され、 彼を直に紹介されるまで、冬獅郎は思いもしなかった。

   『こいつをお前の隊に配属することにした』
 いつまでも衰えを見せない老人はその手を振って、奥から現れた一人の青年を自らの横に招いた。 固く結ばれた口、顰められた眉はどことなく青年を幼く見せていた。
『俺の隊・・・、十番隊にですか・・・?』
 驚いた自分に、山本は既に予想していたのか、ほれ見たことかと得意げに、愉快そうな顔をした。
 眉間にしわを寄せ、松本曰く「そんなんじゃいつまでたっても寄り付くもんも寄り付かないですよ」という 冬獅郎の表情に、山本の隣に並ぶ青年は少しだけ息を呑んだようだった。
 正直、自分はあの爺のそういった悪趣味な趣向に腹が立つ性質なのだ。前々からそんな顔をした山本が碌なことを 言わないからである。青年には悪いと思ったが、僅かな腹立ちを表してしまうのはその時ばかりは 勘弁してもらうしかなかった。
 心なし上がった霊圧を抑えると気づいた青年はこちらを見て、すぐに顔を伏せた。
『これからお世話になります。よろしくお願いします。また後ほど挨拶に伺わせていただきますが お見知りおきを』
 自分に劣らず、表情の乏しい面構えをしていた青年は、礼儀正しく頭を下げた。
 そして、その予期せぬ出会いから数日後、彼は十番隊の戸を叩いたのだった。  
 素性はどうであれ、山本に紹介されたからといっても、霊力・能力・人柄に問題がなければ、 気にすることもない。
そして、実際会ってみれば、彼は普通の青年であった。
死神に普通も何もあったものではないが、自分の想像の範囲を超えるほどではないという意味で、だ。
その青年が改めて入隊の挨拶に自分の元を訪れた時から、出生についての詳しい質問はしていない。 彼からもそれを口にすることもなく、また他のものも口にすることはなく、それでも彼は自然と十番隊に馴染み、 今では他の隊士ともうまくやっているようだ。時折、松本にからかわれて遊ばれてもいるが。
 表情が乏しいと最初感じていた彼の印象も、それは単に緊張していただけでよく笑いよく怒り、と感情の豊かな表情を 見せて冬獅郎の心を和ませた。


 息を切らせて、ここは執務室からは大分離れた廊下だった、自分を見る青年に ひとまず息を整える間を与えてから、冬獅郎は口を開いた。
「どうした? なにか不備でもあったか」
 青年が手に持っているのは先ほど自分が部下に渡したばかりの捺印済みの書類だ。 慌ててくるといえば、そのくらいしか用件が浮かばない。
「いえ、これは今から六番隊に届けに行くところで。それよりこれを・・・」
 いったん言葉を切って、青年は自分の懐を空いている手の方で探りだした。
「・・・・・・?」
「あ、あった」
 ごそごそと探っていた指は目的のものを掴んだようだ。
「こちらを、松本副隊長からお預かりしました。至急とのことでしたので」
 四つ折にされた白い紙。手のひらで包んでしまえるほどの小ささだ。 そっと差し出された紙、おそらく手紙の類だろうを受け取った。
乾いた音を立て、開いた中には予想通り文が綴られていた。いや、文章というには短い かもしれない。
 流暢な筆で書かれた文を目で追ったあと、冬獅郎は顔を上げた。
「これは、返答を要すると言われたか?・・・」
「いえ、ただお渡しして欲しいとのことでしたので・・・」
 訝しげに己を見る青年は、なんのことかさっぱりわからないと首を傾げた。
「・・・・くく、お前、松本にからかわれたな」
「え・・・!?」
 見開かれた彼の目の前に、今自分が読んだ紙切れを広げてやる。

そこに書かれた文字は、

『隊長、優秀な部下を褒めてやって下さいね』

もちろん、部下とは目の前の青年のことだ。馬鹿正直に、仕事の手を途中で止め、出て行ったばかりの 冬獅郎を必死に追いかけ、意味もない文を届けた部下を褒めてやってくれといっているのだった。 読み終えた青年は見る見る間に脱力していく。
「・・・・・・ぁー、またやられた・・・っ」
 がっくりと肩を落とし、よほど重要なこととでも勝手に思ってもいたのだろう、青年はショックで 廊下に沈み込んでいる。
 毎度楽しませてくれると心のうちで青年には悪いと思いながらも冬獅郎は肩を震わせて 笑ってしまう。
 こんな姿を見れるから松本も何度も彼をからかうのだろう。
「まぁ、松本には俺が後から言っておく。悪かったな」
「いえ・・・・」
どことなく力なく笑んでみせる青年に冬獅郎は、小さく笑った。
 とりあえず、青年の登場で忘れていた山本への報告を思い出し、冬獅郎は踵を返した。
「・・・・日番谷隊長」
「なんだ?」
 振り返った姿に青年は、最近よく見せる苦笑を浮かべる。
「いえ・・・なんでもありません」
 首を左右に振るが、その目は何かを訴えているようで冬獅郎は引っかかった。 けれど、彼が言わぬならばそっとしておくべきことなのだろう。
「そうか。なにか気にかかることがあるならちゃんと言えよ、黒埼」
「・・・・・はい」
目を伏せ、顔を上げた青年、黒埼一護はいつもどおりの顔に戻っていた。
それを見届けた冬獅郎は、白い羽織を翻し、一番隊舎への道のりに戻った。


「あーあ、もうばれちゃったの?」
 後ろからかかった声に、一護は振り返った。廊下の曲がり角からひょいと顔を出したのは 松本乱菊その人だった。
「乱菊さん・・・、もう、からかうのは止めて下さいよ」
 それでも乱菊相手には決して厳しい口調でいえないのは、憎めない彼女の性格ゆえだ。
「だって、隊長と会う時間増やしてあげたいって思うじゃない。見ていてじれったいんだから・・・っ」
 腕組みをして余計に強調された胸元が揺れる。
「いいんですよ。これで」
 一護の視線はもう廊下の向こうに消えてしまった姿を追う。
 それに乱菊の目は真剣なものになった。
 からかいは乱菊のいつだって我慢しがちな一護への心配の表れだ。
 彼女にとって上司である冬獅郎が、大量の大虚との戦いで倒れたときの一護を知っているから。
「本当にアンタ、これでいいの・・・?」
「はい。だって、冬獅郎はちゃんと生きてここにいてくれる。俺の傍に」
 あの時、大虚との戦いで重症を負った冬獅郎が四番隊に運ばれたと聞いたのは一護が 現世に居るときだった。息を切らせ、所々血を滲ませた乱菊が最初に言った言葉は、 「隊長が」だった。
 知らされる事実。絶望感。目の前が真っ暗になった。
もう、母親以外に自分が失うものなんかないとどこかで思っていたのかもしれなかった。 それが幻想だと打ち砕かれた。
 だって、その時、俺は暢気に友人たちと遊んでいた。彼が傷つき、倒れたことも知らないで。 分かっていたら怖いけど、それでもTVや本で見る「虫の知らせ」というやつもなくて、 あっても助けられたかどうかわからないが、それでも彼の背を守り、共に戦うことはくらいは出来ただろう。
 だから、数ヶ月後、奇跡的に命を取り留め、眠り続けていた冬獅郎が目を覚ましたとき、 あの翡翠の色を見た瞬間の幸福、安堵を上手く表す言葉がなかった。
 ただ、ただ、胸が痛くて、息が苦しくて、それでも布団から出た冬獅郎の確かに暖かい手を 握り締めたまま、乱菊に肩を抱かれて初めて自分が声を上げて泣いていることに気づいた。
 目覚めた彼がたとえどんな状態であったとしても、きっと俺はみっともなく泣いただろう。
「アンタのこと、忘れちゃってていいの?」
 意識不明から戻った冬獅郎は、一護のことを忘れていた。失血性のショックからか、頭部の衝撃でかは 理由は定かではなかった。思い出すのかもしれないし、思い出さないのかもしれないと卯の花でさえも はっきりとした言葉は言えないようだった。
 彼は黒埼一護についての全てを忘れていた。揃っていたパズルのピースがまるで一護のところだけ 欠けてしまったかのように。空白は未だ埋まっていない。
  それでも驚きはあったが、一護にはショックではなかった。確かにまったくないといえば嘘になるかもしれないが、 彼を失う絶望感に比べれば塵ほどの重みもない。
 いつか思い出す日が来るかもしれないし、もし、このまま忘れていてもまた彼と過ごす時間を持てばいいのだと思えた。 そういった意味では自分は人から見れば随分楽観的なのだろう。事実、目の前の乱菊は信じられないという顔をしている。
一護はガシガシとオレンジの髪を、(ある意味、初対面の冬獅郎曰く、『随分、派手な髪だな』だそうだ)掻く。
「おかしいかなー?」
「まぁ・・・アタシにとっては信じられないわね」
「うーん。乱菊さん、俺、あいつが俺の名前呼んでくれるだけで幸せなんですよ」
 眉を寄せて照れたように笑う顔に嘘はない。
「黒埼・・・・」
「だから、アイツが思い出さなくていいんです」
 たとえ、自分のことを思い出さなくても、長すぎる年月がどんなに彼の姿を大人にしても。
自分を見つめ、名前を呼んでくれる。以前より少しだけ低くなった声で。
 それでも銀色の髪も翡翠の目も、本当に欲しいものはなにひとつ変わっていないと思うのだ。
「それに、いつか思い出したら、ぶん殴ってやるつもりですから」
 握りこぶしを見せる一護に、乱菊は声を上げて笑った。



 いつかお前が俺を思い出した時は その頬に忘れていた罰と、
 それからいつの間にか追い越されたその体に喜びの抱擁を。

 だからそれまでは、名前を呼んでいて。




「コール・マイ・ネイム」 (call my name)
06.3.11

習作:02
お題30「ほかになにも」
名前を呼んでくれるだけで(ほかになにも)いらないという意味で。

冬獅郎記憶喪失ネタ。いろいろとはしょりすぎ。
冬獅郎は大怪我を負って記憶喪失に、そのまま何十年(百年)か
経った頃の話。
最近己の中のブームである、
黒埼、日番谷隊長ってお互いに呼ばせたかっただけ。