覚めやらぬ夢を朝に見る
心地よい温もりと静けさに委ねていた意識に軽く触れるように。
何かが一護を眠りの底から浮上させようとしている。
まるで、少女の軽やかな笑い声のようでもあり、小さく弾む歌声にも聞こえる音。
断続的に続くそれは、羽先で触れるように意識の表面を揺らす。
なんだろうかと考えた瞬間、一護の目は白い光が差し込む世界を見た。
「まぶし・・・・」
手のひらを翳し、瞼を閉じて光が沁みた目を癒す。
ゆっくりと瞬きを繰り返し、完全に目を開けてみれば、白いと思ったのは障子を透かして
見える朝日だった。
さっき感じた以上の明るさでもない。まだ、薄暗い。朝は開け切っていないのだろう。
パタパタと建物や木に落ちる音の連続。
障子越しに聞こえるのは、雨音だった。
まどろみの中、絶えず聞こえてきたのはこれだったのかと気付く。
その音に起こされたはずなのに、今やそれは子守唄のように、
瞼をおろせと誘う。
身じろぎする体は緩くであったが、意識を落とす寸前までと変わらず、
彼の両の腕に囚われたままだった。
起こさぬようにと思うけれど、一人だけ布団の中から抜け出すことは不可能だった。
この腕を引き離し、布団の中から抜け出す。
たったそれだけのことなのに、まだ朝も明け切らず、近頃めっきり
冬に近づいた気温のなかへ踏み出すには、大げさだが勇気のいることに思えた。
そう、まるでこれは一種の甘えのようだ。
温かな庇護の下を抜け出し、過酷な世界に踏む出すことを躊躇うような。
どうしようか・・・と思案にふければ、後ろから自分を抱きしめている彼の寝息を後頭部に感じた。
規則正しいそれは冬獅郎が今だ眠りについていることを教えてくれる。
だが、いつまでも彼が目覚めぬ保証ではない。
一護がこの体勢のままでいるには少し居心地が悪かった。
いや、居心地が良すぎて困るのだ。あまつさえ、このままでは眠ってしまいそうで尚更いけない。
起きた彼と目をあわせねばいけないという事実が、一護を完全に睡魔に身を任せるのを躊躇わせる。
簡単に言えば彼が目覚めた時、どうにも顔をあわせ難いのだ。
当然だが冬獅郎としたことに後悔はない。が、一人前に事後の羞恥というものが一護にもある。
情事の痕跡は、冬獅郎が片付けてくれたのだろう、起きてから気付いて見たが残っておらず、
体は新しい夜着を着ている。
その点で、困ることは無い。だからただ、あとは自分の心が幾許か落ち着くための時間が欲しいのだ。
彼が目覚める前に。
さぁ、どうしようか・・・・。
心地よい檻は、今だ一護を閉じ込めたまま眠りの底にいる。
昨夜、彼の心も全て手に入れたくて、それでも手を出せぬ一護の理性を壊したのは、冬獅郎だった。
意識しすぎてしまうのを隠したくて、知らず知らず一護は冬獅郎を避けていた。
総隊長である山本に呼び出された時も、定期報告も、冬獅郎に会わないようにとさり気なく
十番隊の近くを避け、
たまに会う乱菊にも手早く挨拶を済ませるだけで現世に帰っていた。
そんな期間が数ヶ月も続けば、楽観的に考えても避けられていることに冬獅郎が気付いても
可笑しくなかった。
尸魂界に現世での虚退治の報告のためにやってきた一護を廊下で見つけ、冬獅郎はそのまま
開いていた部屋の中に押しやると、後ろ手で素早く襖を閉じた。
「ちょっ・・・と、冬獅郎!」
慌てたような一護の顔に、安堵と怒りと喜びが湧き上がる。
冬獅郎が歩を進めるたびにじりじりと一護は後ずさりする。
「うわ・・・っ」
足を縺れさせ、倒れた体で尻餅をつきながらも畳の上をなおも後ずさった。背中に壁が当たり、
もう下がれぬと知ると一護は左右に首を巡らせた。
しかし、逃げ道を見出す前に目の前の冬獅郎に両手を壁につかれ、閉じ込められた。
「久しぶりに見る。・・・・・・よくも俺を避けてくれたな」
静かな声音に含まれた怒りと強い眼に、一護は顔を伏せた。
「・・・・・・・・・ワリィ」
それだけ言うのがやっとだった。沈黙は重く圧し掛かる。
近くに隊舎がない棟のようで、人気のない静けさだけがあった。十番隊を、冬獅郎を避けるために
取った行動が返って仇をなした。
自分の感情を意識する前までは、彼といる沈黙すら心地よかった。それが嘘のように今は、
静寂の鎖に体が、いや呼吸すらも、縛られたようだ。
どんな言葉を言えば、冬獅郎の怒りは和らぐだろうか。
すまなかったなと言って、笑って済ませられるような簡単な問題ではなくなってしまった。
この感情が消え去るときまでそれができることはないだろう。
それなら、どんな言葉も口に出せない。
冬獅郎は一護が自分を避ける理由を知りたいのだ。拒否にしろなんにしろ、ちゃんとした理由さえ
伝えれば彼は、それを受け止める人物だ。
けれど、肝心の理由を一護は言えない。好意と言う感情ゆえに。
恋さえ慣れぬ一護は、相手に誤解させないように上手く立ち回れる術を持ち合わせていなかった。
壁に追いやった時から、目を合わせぬ一護に冬獅郎はため息を漏らした。
「お前が嫌がるならこれ以上は近づかないし、触れねぇ・・・。
俺はどこまでお前に許されてる?」
耳元で囁く声は、彼らしくなく隠せない苦痛を含んでいた。
冬獅郎の髪が頬に触れる。顎を辿る体温の低めの手。
そのまま肩に触れた両手は自分を抱きしめようと
して躊躇っている。
「冬獅郎・・・・・・」
自分が望んだ冬獅朗が、求めてくれているのを感じた。
嬉しさとともに罪悪感が一護の内に溢れた。
この手を取ってもいいのだろうか。本当に?
自分も彼を抱きしめ返してもいいのだろうか。この手で?
自分が求める感情で冬獅郎が汚れてしまうのではないかと思うと恐い。
許されているか聞きたいのは、本当はこちらの方だ。
俺は、どこまでお前に許されてる?
この感情は、許されるのか?
考えれば考えるほど、どうしても自分から手を伸ばすことなんて出来ない。
「・・・・・・・・・」
いつまでも動かない一護に冬獅郎は、一度きつく瞼を閉じた。
互いに顔を擦れ違わせたままの一護にそんな彼の表情は見て取れなかった。
「・・・悪かったな」
手が離れていく。
布越しだったはずなのに冬獅朗が触れたところがやけに冷たく感じられた。
一護を閉じ込めるように膝をついていた冬獅郎が立ち上がる。
衣擦れの音が部屋に響く。
離れていく体温を追って一護の顔が上がった。
その眼には、冬獅郎の背が映る。白い羽織がまるで自分と彼を分け隔てる壁になる。
もう二度とあの背は自分を振りかえない?
「っつ・・・・」
離れていく。
欲しい欲しい欲しいその背中。お前。全てが・・・・・!
せき止めていた水が溢れるようにただその思いだけが一護を動かす。
開けられていく襖の隙間から光が完全に差し込む前に一護は手を伸ばした。
立ち上がり、冬獅郎の服の袖を掴んだ。遠慮も何もない、縋るような力で。
くんと後ろに引っ張られる感覚に冬獅郎がよろける。
「っ、・・い、一護?」
自分の腰に回された一護の両腕が小さく震えている。
「一護・・・・・・」
「どこにもいくなよ、ここにいろ」
「・・・・・・最初から、いるだろうが。
最初からお前の傍を俺は選んでるんだ」
一護の手をゆっくりと放すと、冬獅郎は後ろを振り向き、膝立ちのままの彼の頬を挟んで引き寄せた。
「っ・・・!?」
驚きに体を引きつらせる一護に構わず、荒々しく唇を奪う。
息すら許さぬ勢いに、一護が冬獅郎の着物を掴む。
ようやく顔を少しだけ離すと、向かい合った冬獅郎の唇が濡れているのが見えた。
冬獅郎が一護の頬を挟んだまま、互いの額をあわせている肌から温い体温が伝わる。
銀糸の渇いた感触がなんだか懐かしくて、そう思うとこんなにも長い間、
冬獅郎と離れたことを一護は初めて後悔した。
「ここまで強情な奴だとは思わなかったぞ、まったく。こっちの我慢も考えろ・・・・!」
くしゃりと歪ませた冬獅郎の笑みに、一護はじわりと胸が熱くなるのを感じた。
その笑顔が見たくて、なんだか傍が心地よくて、いつまでもそこにいたくて、
冬獅郎を自分を守りたかったのだと分かった。
その後、いつも通りの隊長の顔に戻ると冬獅郎は隊首室に戻るために、部屋を後にした。
一護も少しして、その部屋を後にした。その頬は夕暮れのせいだけでなく赤い。
彼の頭には先ほど部屋を出て行く前に囁かれた冬獅郎の、
夜に自室にて待つという言葉が残って離れずにいた。
門限を守る為に尸魂界を後にした一護が、その数時間後にはまた戻ることになる。
今、思い出せば、顔が熱くなるのが分かる。朝の空気すらその熱を抑えることが出来ない。
歪んだ視界に映ったのは、銀糸と二つの翡翠。
そして、耳に残ったのは、常には聞くことの無い熱を孕むかすれた声。
傍に、手の内に、この腕に、欲しかった全てがあった。
一護は冬獅郎を欲していた。
恋愛に疎い一護が、初めてのその感情に、冬獅郎を汚してしまう欲望だと否定し続けた。
それでも打ち消せず渇望していた彼が、彼のすべてが、自分の手の届く世界にあった。
見下ろす翡翠に映りこんだ自分の姿に、喜びに打ち震える胸の鼓動がやけに煩かった。
意識しだせば、常には自然な呼吸の仕方すら忘れてしまいそうで必死だったのに。
『一護・・・・・・・』
名前を呼ばれた瞬間、吸い込んだ息の行き場すら見失った。
こいつに俺は殺されるんだと、一護は思った。
『一護・・・・・・・』
もう一度、本当に大切に紡がれる声音と穏やかな笑みに、歓喜が刃となって一護の胸に突き刺さる。
こんな顔で呼ばれたら、もう抵抗なんて出来るわけが無かった。
投げ出した体は、今や、目の前にいる一人の男を、体も心も受け入れる為だけに
存在しているだけだった。
無意識に自分の方へと伸ばされた一護の手のひらに冬獅郎は口付けを落とす。
冬獅郎の唇の感触と湿った息が自分の爪先まで侵食して、細胞の一つひとつが
破裂して溶けていく幻想をみた。
「どうやって、抜け出すかなー・・・」
思ったことが無意識に口から漏れていた。
ぎゅうと力の入った腕に一護は後ろを振り返った。
「冬獅郎、・・・お前起きてたのか・・っ?」
「今起きたところだ。・・・さっきの答えだが、ようやく、手に入れたんだ。誰が放すか」
そう言ってますます、腕に力を込められる。
だから困るっていうのにどうして、こいつは・・・!
「・・・いいから、まだ、大人しく寝てろ」
正面にある顔、近い、近い・・・!!
驚いて反射的に閉じた瞼に、温かな感触。
それが目尻と頬へと触れると、自分の頬の熱さに気付いたのか喉を震わせ笑う冬獅郎の声がする。
悔しいけれど、このまま目を合わせてもますます赤くなってしまうのは予想できるから、
黙って過ぎるのを待つしかない。
けれど、いたずらにあちこちを過ぎていく唇にいちいち、反応してしまう。
その度に笑われ、余裕で憎らしい顔が一護の瞼の裏に浮かぶ。
このままなのも癪で悔し紛れに蹴りを入れようと足を上げれば、その意図すら読み取られていたのか、
わずかに太腿が上がったところを左手で止められる。
裾の間から素肌に触れる手の感触に思わず体を震わせれば、頭上から声。
「なんだ、誘ってんのか?」
「ち、違う!」
慌てて否定すれば笑い声が響いた。
「まぁ、俺も流石に二日続けてお前に無理させる気はねぇよ。
とりあえず、このままでいようぜ。雨が止むまで」
やがて、眠りの手は、二人の瞼を優しく下ろした。
「 覚めやらぬ夢を朝に見る」 05.11.22